本岡寺縁起

本岡寺は、永仁6(1298)に、日蓮大聖人の直弟子「美濃阿闍梨天目日盛聖人」(みのあじゃり てんもく にちじょうしょうにん)の

開山と伝えられております。

日蓮大聖人の池上での御入滅より16年後、今年(令和6年)で開山726年となります

当初は、現在地より南に1㎞ほどの大内台(おうちのだい)と言う山の中に、

法華堂(ほっけどう)が建立され、本光院(ほんこういん)と名乗ったのが始まりと言われています。

 

本岡寺が転機を迎えたのが江戸時代初めになります。

当初、鎌倉幕府の重臣八田知家の流れである「茂木氏」が地頭を務め、その後佐竹家臣「須田美濃守」が茂木を治めておりましたが、

関ケ原の合戦で佐竹家が秋田へ移りのに伴い、それに従い茂木氏・須田氏共に秋田へ移り、

その後「細川幽斎公」の次男、熊本藩の初代「細川忠興公」の弟「細川興元(おきもと)公」が、茂木藩を建てた頃です。

茂木城下から見て、現在地は、宇都宮や益子方面の入り口に当り、番所が置かれていたと推測されます。

その為、この本岡寺周辺は、古い言い方では「門側」(もんぱた)呼ばれており、

西側の地区(宇都宮寄り)を「番の前」と言う旧地名残っております。

その様な場所ですので、いざ戦となった時は寺を使うことを考え、現在地に移る様に興元公より命じられ、土地の寄進を受け、

二代藩主「興昌(おきまさ)公」の時代、本岡寺第12世「日圓(にちえん)聖人」の手で現在地移転いたしました。

また、この移転には、当時本岡寺に帰依されていた、

二代藩主興昌公の奥方「淨珠院(じょうじゅいん)さま」の力添えが大きかったとおもわれます。

淨珠院様は、伊予大洲藩初代藩主「加藤貞泰(かとうさだやす)公」の娘で、本岡寺の大信者でした。

娘の「鶴姫」や孫で「熊本新田藩(くまもとしんでんはん)」初代藩主「細川利重(とししげ)公」の奥方になった「亀姫」と共に、

本岡寺を盛り上げてくださいました。

その関係で、本岡寺の紋は、細川九曜紋を使っております。

本堂裏に淨珠院さまの墓所が作られ埋葬されました。

また、鶴姫・亀姫の供養塔も、寄り添う様に建てられております

現在、「淨珠院さま」の墓所は、茂木町の町指定文化財に登録されています。

 

この時代以降、本岡寺は、細川家臣団を中心に信仰を集め、

興元公寄進の馬頭観音像や三代藩主興隆(おきたか)公重臣が寄進した涅槃図の掛け軸が、今も伝わっております。

また、当時の重臣の子孫と伝わる家柄も残っております。

その中に、岡家という家はあり、それまで本光院という名でしたが、その岡の字を使って、

宝永の頃に今の本岡寺という名前に替わったと伝わっています。

 

その後は、残念ながら、住職不在の時期もあり、荒廃した時代もありましたが、歴代住職の尽力で復興する事ができ、

戦前の三派合同までは顕本法華宗に所属していましたが、三派解消後は日蓮宗に残り、現在まで続いております